第1話 ことり荘のお正月 はこちら。
梅雨はどこへ消えたのか、外はすっかり夏の日差しだった。あかりは何もする気が起きず、午後になってもベッドの上でごろごろしていた。年末年始の休みを返上して、あれだけ必死に書いた小説は、反響もなく終わってしまいそうだった。次作の依頼も来ない。本格的に手詰まりだ。今は原稿料で何とか食いつなげるが、印税は期待できない。単行本化も難しいだろう。
(あんなにがんばったのに……)
好きな小説に関してはいくらでも努力できると思っていた。だけど、努力した分だけ報われるのは、物語の中だけなのかもしれない。最後のところは運やタイミングだ。自分では制御できないもので決まってしまう。
このままではお金がなくて行き詰まってしまう。アルバイトや下請けの仕事を探さないといけないが、他の仕事をすると書く体力と気力が削られる。いっそ、小説家であることをあきらめて、普通に暮らせたら幸せになれるのかもしれない。黒々とした気持ちが体の中を渦巻いていく。
(でも小説をやめたら、本当にわたしは何の価値もない人間になる……)
そこまで考えたあかりは、はっと気がついて、
「止まれーっ!」
と、大きな声で叫んだ。無理矢理ベッドから起き上がる。ネガティブ思考ループに入っている。このループに入ると思考がぐるぐる回り続けて体力も気力も削られてしまう。だから、入ったことに気づいたら考えを強制終了する。それが33年間、ネガティブ思考とともに生きてきたあかりのサバイバル術だった。
部屋を激しくノックする音が聞こえて、ドアを開ける。ドアの向こうには大きな目を見開いた澄江が、殺虫スプレーを持って立っていた。
「どこですか?」
「いや、ごめん。違う。ただのひとりごとだから」
「えっ? でも、止まれって言いませんでした?」
「自分に止まれって言ったの。虫に言うよりは効くよ。日本語通じるし」
「なるほど」
素直に感心している澄江を見て、あかりは体の中の黒い塊が溶けていくのを感じた。染めていない黒髪と化粧っけのない顔は高校生のようだが、この管理人は自分と同じ年だ。料理は上手だし、薬膳の知識も豊富で、家のことにもよく気がつくし、ことり荘の管理人としてとても優秀だ。あかりの目には、自分らしく生きられる場所を見つけた澄江がまぶしかった。
「今日の晩御飯は澄江ちゃんの薬膳料理、食べようかな」
あかりの言葉に、澄江の顔がぱっと輝く。最近のあかりは、澄江のごはんを食べていなかったから、きっと心配をかけていたのだろう。申し訳ない気持ちが湧いてくる。あかりは素直に自分の気持ちを言うことにした。
「最近頼んでないのは、澄江ちゃんのごはんが嫌になったとかじゃなくて、何かさ、小説の連載もなく、仕事もしていない自分が、ちゃんとしたごはんを食べる資格はない気がしたんだよね……」
澄江が何か言いたそうな顔をしたのを、目で制して、あかりは続けた。
「でもそれって、自分いじめみたいだよねえ。小説の連載のないやつにはおいしいご飯は食べさせないぞってさ」
澄江がぶんぶん頭を振ってうなずいている。
「ただでさえ落ち込んでいるのに、そんなことしたらますます元気でないし、体調崩すし、小説もどんどん書けなくなる。これよくないなあって、澄江ちゃんの顔見たら気がついた」
「それはよかった!」
澄江がはしゃいだ声をあげる。よっぽど心配してくれていたのだろう。それでも澄江の方からあかりの生活や食事に口を出すようなことはしなかった。あかりが話すのを待っていたのだろう。ひとつ屋根の下にいて、話したいと思ったらいつでも聞いてくれる人がいる。その存在のありがたさが今のあかりには身に染みた。
「何作ろうか。あかりさんはどうなりたい?」
「うーん、自分を大切にできるようになりたいかな……なんて、そんな薬膳はないよね?」
「……ある」
「えっ? あるの?」
「うん。食材とかじゃないけど、その方法があるよ」
澄江の言う「方法」とは、自分で料理をすることだった。あかりの目の前には鮮やかな色彩の野菜が並べられる。トマト、キュウリ、ズッキーニ、ナス、オクラ。色だけでなく、形もさまざまだ。
「夏野菜は暑い時期に体をクールダウンして、喉の渇きを癒し、汗で失った潤いを補う働きがあるよ」
言いながら、澄江は棚から袋を取り出しスパイスを選んでいる。暑い国の香りが漂う。その香りだけで旅をした気持ちになる。
「やっぱり夏はカレーだね」
「うん。カレーのスパイスはお腹を温めて胃腸の働きを助ける。辛すぎると体に熱がこもってしまうけど、夏野菜と一緒にとるとちょうどよくなるよ。あと、冷たいものばかり食べてお腹が冷えていたり、エアコンで手足が冷えているときにもいいかも」
「ココナツミルクは何にいいの?」
「心(しん)の働きを助けるよ」
「しん?」
「東洋医学の考えで心臓や精神や思考の働きを指すんだけど、心は夏の暑さで弱りやすい。心が弱ると気持ちが乱れたり、眠りの質が悪くなったりする」
(なるほど。わたし、心が弱っているのかも…)
自分のネガティブ思考も暑さのせいだと言われたら、何だか少し気が楽になった。
野菜を切り終わると、庭のレモングラスを取ってきてとハサミを渡された。外はむっとする熱気がただよっていたが、思っていたほど暑くはなかった。エアコンで冷えた体が解凍される。「シューッとした細い葉っぱ。匂いで分かる」と澄江は言っていたが、それらしいのは地面から噴き出るように生えた巨大な草の塊しかなかった。匂いをかいだら、確かにレモングラスだ。お茶にする用なのでたくさんとってきてと言われている。葉っぱの根本を、ひとつかみ握って、ちょきちょきと切る。清涼な香りに包まれる。レモングラスはお腹を温めて消化を助けてくれるらしい。
戻ると食欲をそそるいい匂いが漂っていた。鍋の中に優しい黄色のココナツカレーができていて、あかりの切った野菜が顔を出している。
「おいしそう。他に何を作るの?」
あかりが聞くと、澄江は嬉しそうに「生春巻き」と答えた。
「具材はエビと鶏肉と緑豆春雨とニラ。エビと鶏肉は体を温める食べ物で、疲労回復と胃腸の働きを整える。緑豆春雨は夏の湿気を取り除いてくれる。ニラを入れることで体内のめぐりを良くして、解毒やむくみ解消を助ける」
作業の手を止めることなく澄江は楽しそうに話す。食卓に具材を入れた皿とライスペーパーが並べられていく。手を洗って食卓に着いたあかりは、今度はライスペーパーに霧吹きで水をかけて具材を巻く役割を担当することになった。またしても重要な役割だ。
食感の異なる野菜を加えて、ライスペーパーを破らないよう丁寧に巻いていく。食材を選んで、刻んで、炒めて、煮る——手間はかかるけれど、それが楽しい。これを食べる瞬間を想像するとわくわくする。こんなに楽しいことを、なぜ普段からやらないのだろう、と明里は考える。花音荘のキッチンも冷蔵庫もいつでも使える。検索すれば簡単なレシピはいくらでも出てくる。食材はスーパーに揃っている。難しいことは何もない。それに料理をしなくても、コンビニで必要な食材の入ったお惣菜を選んで買うことだってできるはずだ。
でも、ネガティブな思考に囚われると、そんなちょっとした手間さえ、自分のためにしてあげたいと思えなくなる。大切にするに値しない自分だと感じてしまうのだ。
「自分を大切にするって、簡単なのに難しいよね」
澪の言葉に、明里はハッとして顔を上げた。自分が言いたかったことと同じことを澪が口にした。それが、明里には意外だった。
「澪ちゃんはそういうの、得意そうだと思ってたんだけど」
澪は静かに首を振った。
「苦手だから、練習してる」
「練習……」
「練習しないと、上手くならないから」
「そっか」
明里は微笑んだ。自分は練習もせずにあきらめるところだった、と思った。「努力」より「練習」と言う方が、なぜか気持ちが少し軽くなる。自分を大切にできるようになる練習、ネガティブ思考のループに陥らないための練習、漫画で生活できるようになるための練習……心の中でつぶやきながら、明里は生春巻きを巻き上げる。それは春巻きというよりおにぎりみたいな形だったが、意外にも花音荘の住人たちには好評だった。
◎今日のまかない薬膳
・夏野菜のココナツカレー
・海老と鶏肉のビッグ生春巻き
・レモングラスティー
(第3話へつづく)
