大文字山にうっすらと雪が積もっていた。もう昼過ぎだからほとんど溶けてしまったのだろう。木の生えていない大の字の三角形の部分だけが白く残っている。
(塩むすびみたい……)
と、澪(みお)は思った。足の指先まで凍えるような寒さでなければ、いつまでも眺めていたい光景だ。ダウンコートの襟を引き上げる。今頃、近くの有名な神社は初詣の人たちで賑わっているのだろうが、花音荘の周りには人の気配がない。時が止まったかのように静かだった。
ポストを開けてみると、入っているのは新聞だけで、年賀状はなかった。家に戻る前に、澪は一緒に新年を迎えた花音荘を眺め、心の中で挨拶をした。シェアハウス・花音荘。ここが澪の職場だ。祖母から受け継いだこの家に住み込んで、シェアハウスの管理人を務めている。
花音荘は瓦屋根に守られた、どっしりとした日本家屋だ。築百年の貫禄は、ただそこにあるだけで、あたりの空気を塗り替える。花音荘を眺めていると、今が令和の世であることも、同世代の人たちが都会で忙しく働いたり、子育てに追われたり、恋愛に悩んだり、おしゃれを楽しんだりしていることも、すべて忘れさせてくれる。澪にとって、理想の場所だ。
静寂を破って、ガラガラとスーツケースを転がす音が近づいてくる。遠くからでも表情がわかるくっきりした目鼻立ちで、都会的なファッションに身を包み、ヒールを鳴らして歩いてくるのは、花音荘住人の晴子(はるこ)だ。彼女は女手ひとつで娘を育て上げたシングルマザーだ。娘が一人暮らしを始めたのを機に、今まで住んでいた広いマンションや大きな家具を処分し、身軽になって花音荘に入居した。年末年始は大学生になった娘とアジアのリゾートで過ごすと言っていたが、もう帰ってきたのだ。
「澪さん、まだ15時だけど、何か食べさせてもらえない? 乗り継ぎで食べ損ねちゃって」
いつもはエネルギーに溢れている晴子だが、今日は何だか覇気がない。
「ちょうど手が空いてたのでいいですよ。娘さんとはもう解散したんですか?」
「バイトだって。タフすぎる」
「晴子さんはお疲れですね」
「そうなの。歩き疲れたし、スパイスのせいかお腹の調子が悪くて」
消化にいいものがいいかな……などと考えながら、澪は晴子の荷物を持つのを手伝って、一緒に花音荘の中へ入る。
花音荘では家賃とは別料金で、まかない薬膳を提供している。まかないが必要なときは二時間前までに直接声をかけるか、チャットアプリで連絡するルールだ。そうすれば澪が、相手に合わせたレシピを考える。相手の体質、そのときの状態、季節。そんなことを考えながら薬膳の知識を実際の人で試してみるのが、澪の趣味だ。
澪のお腹もぐうと鳴った。塩むすびみたいな大文字山を見ていたせいだろうか。いや、それだけではない、と澪は気づいた。昼も朝も食べていない。夜更かしをしたり寝坊したり、だらけた生活を続けていたら、体の声を無視してしまっていた。
「うわっ、何これ!」
晴子の悲鳴が上がった。リビングに何か大きなものが転がっていた。毛布の塊だ。その塊からニョキっと手が伸びて、澪のスカートをつかんだ。
「何か食べさせて……」
息も絶え絶えに言うのは、住人の漫画家、明里(あかり)だ。澪は傍らにしゃがんで、明里の顔を覗き込む。目の下にクマができて青白い。これは徹夜明けの顔だ。
「明里さん、いたんですか。年末年始は誰もいないと思っていたのに……」
「締切で部屋から出る余裕もなかった。夜中にトイレには行ったけど」
「言ってくれたら、何か作ったのに……」
「箸を持つ時間があったらペンを持つ。菓子パンなら左手で食べられるし」
「それなら、おむすびを作ったのに」
「……あ、その手があったか」
「とりあえず修羅場は乗り越えたんですね。じゃあシャワーでも浴びて、あとは任せてください」
澪は明里をお風呂へ送り出した。遭難者を救助するレスキュー隊のような気持ちだった。
さて、と気持ちを切り替えて、キッチンとダイニングを温めるために石油ファンヒーターをつける。深呼吸をする。冷蔵庫を開ける。
(リゾート旅行帰りの晴子さんと、締切明けの漫画家と……それに年末年始をだらけて過ごしたわたしに合う食材は……)
冷蔵庫を覗いてレシピを考える時間が、澪は大好きだった。相手が不健康なほど、作り甲斐がある。
澪が薬膳の面白さに目覚めたのは、祖母の影響だ。薬膳という難しい言葉はずっと知らなかったが、きっかけは祖母が「自分の体と話してみると面白いよ」と言ったことだった。
五歳だった澪はさっそく丸めた筒をお腹に当て、もしもーしと呼びかけてから耳を筒に当ててみた。すると、ぎゅるぎゅると音が聞こえた。確かに面白かった。お腹はその方法でできたけれど、胸から上は無理だった。手を当てたり、目をつむったり、どうやったら体と話せるかを試行錯誤した。ひとり遊びが好きな子どもだったから、飽きなかった。胸を触るとトクトク動くし、耳を塞ぐと頭の中でゴワゴワと音が鳴った。いろんな話し相手ができたような気持ちだった。そんな友達を元気づけたいと思ったら、祖母の語る薬膳の知識が抵抗なく入ってきた。さまざまな力を持つ食材たちもまた、友達のように感じられた。性格も得意技も違う友達。どの食材が体にどんなふうに作用するかは、誰と誰が仲良しかを考えるとすぐに覚えられた。
薬膳に夢中になる一方で、澪は人間の友達をなかなか作ることができなかった。いや、人間の友達ができなかったから、薬膳の勉強に没頭していたのかもしれない。
澪にとって、学校は落ち着けない場所だった。学校にいると、ざわめきがうるさく、慌ただしくて、自分の体の声が聞こえなくなる。体の声に耳を傾けようとすると、今度は周りの流れについていけなくなる。そんなことを繰り返すうちに、澪の体は登校を拒むようになった。朝目が覚めて、学校へ行こうとすると腹痛でトイレから出られなくなる。やっと出られたと思えば、頭が重い。めまいもして、足が前に進まない。
どうして普通にできないの、と母に何度も叱られたが、澪こそ聞きたかった。なぜわたしは他の人と同じようにできないのか。澪の体は、その問いに答えてくれなかった。
一時間後、クロエ荘の食卓に湯気の立つ料理が並んだ。日本の冬らしく半纏を羽織った陽子と、シャワーを浴びてさっぱりした真帆が食卓を見て、歓声をあげる。澪がさらさらと書いたお品書きも添えてある。走り書きのメモのようだが、真帆はそれを両手で丁寧に持ち、声に出して読み上げた。
◎今日のまかない薬膳
・黒米ごはん
・具だくさん豚汁
・菊花かぶ(クコの実を添えて)
・くるみ入り田作り
「さあ、いただきましょう」
澪が宣言すると、ふたりは待ちきれないように食べ始める。澪も豚汁の椀を両手で包んでひと口すする。温かさが体の芯まで染み渡る。体が喜んでいるのがわかる。
「薬膳の解説、やってよ」
口にごはんを頬張ったまま、真帆が言う。
「解説っていうか、ただの好き語りだけど……」
「聞きたい、聞きたい」
陽子も笑顔で促す。
こほん、と咳払いして、澪は背筋をすっと伸ばす。
「まず、黒米ごはん。お米には疲労回復の効果があるから、旅で疲れた陽子さんに。締切との格闘を終えた真帆さんにも最適です。そして黒米には、目の疲れを和らげ、血のめぐりを促す働きがあって、眼精疲労や肩こりにもぴったりなんです」
「物書きのための食材!」
真帆が手を叩く。
「黒い食材は、腎を元気にしてくれます。体の内側から若さを保つ、アンチエイジングの食べ物です!」
「まあ、気を遣ってくれてありがとう」
陽子がくすくすと笑う。
「あっ、アンチエイジングというと年配向けに聞こえるかもしれないけど、腎を養うことは子どもから大人まで全年代に大切なことで、健康の土台を整えることにもつながるんです」
慌てて澪は言葉を補う。澪や真帆と同じ三十代に見える陽子だが、実際は五十歳。このクロエ荘の住人の中で最年長だ。
「やっぱりお味噌汁を飲むと、ほっとする」
「うんうん、日本に戻ってきた気がする。最高だなあ」
真帆と陽子が顔を見合わせて頷く。
「お味噌はお腹を温め、胃腸の働きを活性化してくれます。豚肉は疲労回復に、ごぼうは便秘解消や更年期のめまいに、大根は消化促進に、さつまいもは疲労回復と便秘解消に効果的です」
「全部は覚えられないけど、今のわたしたちにぴったりってことはよくわかった」
菊花かぶを箸でそっとつまんだ陽子は、花のような形をしみじみと眺める。
「かぶって、こんな切り方ができるんだ。澪さん、器用ねえ」
「意外と簡単なんです。かぶには消化を促す作用があって、疲れた胃腸をいたわってくれます。クコの実は真帆さんの眼精疲労に。そして最後はくるみ入り田作りです」
菊花かぶと田作りはお正月に食べたくなると思って、年末のうちに作っておいたものだ。役に立ってよかった、と澪は自分の読みが当たって嬉しくなる。
「ごまめもくるみもアンチエイジング食材です。脳を健やかに保つ健脳効果もあるから、締切明けの疲れた頭にもぜひどうぞ」
「ありがたい!」
「若返る気がする!」
「以上!」
澪が宣言すると、拍手が起きた。澪の頬が自然とほころぶ。薬膳の話をするのは、楽しい。こういう話をしているときは、「普通」の人みたいにうまく話せる気がする。
「あっ! 忘れてた」
陽子が、突然声をあげた。
「何を?」
真帆が尋ねると、陽子は箸を置いて姿勢を正した。
「明けましておめでとうございます」
「あっ!」
真帆も澪も箸を置いて、お辞儀をする。
「明けましておめでとうございます」
「本年もどうぞよろしくお願いします」
最後に三人の声が揃ったのがおかしくて、澪は笑った。今年もきっといい年になりそうだった。
(第2話につづく)
