第4話 エネルギーの配分問題

第4話 エネルギーの配分問題

 地図アプリを頼りに、母の住む「あおい荘」にたどり着いた水樹は、シェアハウスという響きから想像していたものとはずいぶん異なる建物を、呆然と眺めた。やたらと大きな日本家屋だ。かなり年季が入っている。生まれてからずっとマンションにしか住んだことがなく、祖父母もマンション暮らしの水樹にとって、そんな建物はドラマやアニメの中でしか馴染みがない。

 ともあれ、水樹はこれから数日ここに泊まって、京都観光をするのである。日傘をたたみ、スーツケースを引き寄せ、引き戸を開ける。室内は薄暗いが、よく片付けられていて、まるでアンティークカフェのような雰囲気だった。「すみません」と声をかけると、奥から日本人形のようなおかっぱの黒髪の女の子が現れた。

「水樹さんですか? 管理人の花田澄江です」

「少し早く着いてしまいました。母がいつもお世話になっています」

「どうぞ上がってください。光世さんは、水樹さんに食べさせたいものがあるからって買い物に出てしまったんですが、もうすぐ戻ると思います」

 澄江が案内してくれた部屋は、ベッドとデスクだけのシンプルな造りで、まるでホテルの一室のようだった。

「こちらをお使いください」

「母と同じ部屋でよかったのに」

「わたしもそう言ったんですが、光世さんが費用は出すから別の部屋にしてほしいって強くおっしゃって……」

 スーツケースを置いて、一緒にダイニングへ移動する。キッチンには束ねたハーブや洗い終えた鍋が整然と並んでいる。棚にはガラス瓶に入った調味料が美しく並べられている。お茶を取り出すときにちらりと見えた冷蔵庫の中も、食材がきちんと整頓されていた。

 水樹がダイニングに腰を落ち着けると、冷たいハーブティーが出された。爽やかな香りに包まれて、ほっと息をつく。

「これは何ですか?」

「レモングラスティーだよ。庭で育てているの。胃腸や肌の調子を整えてくれるし、気持ちのバランスも回復させてくれる」

「いいなあ、こういう丁寧な暮らし」

 水樹の口から思わず言葉が漏れた。澄江がきょとんとしている。引っ込みがつかなくて、水樹はそのまま思っていることを口にする。

「わたしもこんなふうにしたいのに、全然できない。部屋はぐちゃぐちゃだし、人なんか呼べないし、自炊も全然続かないし。ほんと、人として終わってるなーってへこむんです」

 母にも友達にも話したことのない本音だった。なぜ初対面の人に話しているんだろう、と水樹は自分に戸惑った。でも、初対面だからこそ話せることもあるのかもしれない。

 澄江は水樹をじっと見つめると、

「水樹さんは大学もサークルもバイトも全力で楽しんでいて忙しいって、光世さんから聞いているけど、もしかして、家のことをするエネルギーが残っていないのかも?」

 と、言った。

「エネルギー?」

 水樹は首をかしげる。体力のことだろうか。

「エネルギーには限りがあるから。わたしなんか、ほぼ引きこもりだよ。ここの住人としか話さない日もよくあるし。家のことをしたら外に出るエネルギーがなくなっちゃうの」

「わかる」

 いつの間にか、あおい荘の住人・彩美もダイニングに出てきていた。水樹に挨拶をすると、冷蔵庫を開けてレモングラスティーを取り出し、グラスに注ぐ。

「漫画を描いているときはエネルギーを漫画に全振りしているから、何を食べたいかすら考えられなくなる。放っておいたら菓子パンばかり食べてしまう」

「菓子パンはごはんじゃなくて、おやつだから」

「澄江ちゃんにそう言われて改めました。澄江ちゃんのご飯、最高です。水樹ちゃんもここに住めたらいいのにね。でも大学が東京だもんね」

 ふたりのやりとりを聞いて、水樹は思わず笑ってしまった。管理人として毎日料理を作ってくれる黒恵のことも、漫画家として活躍する彩美のことも、水樹は母から聞いて知っていた。自分にはできないことをやり遂げているふたりを尊敬していただけに、そんな意外な一面があるとは思いもよらず、驚きを隠せなかった。

「水樹ちゃんが人としてダメだということじゃなくて、エネルギーの使い方の問題なんだよ。何もかも完璧にこなせる人なんていないんだから」

「でも、お母さんはいつも仕事も家のことも完璧にやっていました。フルタイムで働きながら、ご飯を作って部屋も整えて……」

 水樹の言葉に、黒恵と彩美は顔を見合わせた。何か言いたそうな雰囲気が漂う。そこへ、光世が外から帰ってきた。

「今日もすごい行列だったよ。浅草の人形焼き」

 額の汗をぬぐいながら、三人の顔を見渡した。

「何の話をしてたの?」

「光世さんが仕事も家事も完璧にこなしていたって話。水樹ちゃんはそれを目標にしようとしているみたいで」

 彩美がそう言うと、光世は「えっ」と妙な声を上げた。黒恵と彩美の顔を交互に見てため息をつき、意を決したように水樹を見た。

「ちょっとついてきて」

 水樹と光世がふたりでダイニングを出て数分後、水樹の「うそ、何これ!」という声が聞こえてきた。光世の部屋は、嵐が通り過ぎたあとのように散らかっている。黒恵にも彩美にも周知のことだが、水樹は初めて目にするのだろう。一緒に暮らしていた頃の光世は、水樹のために仕事も家事も懸命にこなしていた。しかし今は、仕事にエネルギーのすべてを注いでいる。

 誰にだって、使えるエネルギーには限りがある。問題はそれをどこに向けるかだ。光世の散らかった部屋は、水樹を納得させるのに十分すぎるほどの説得力を持っていた。

 光世と水樹がダイニングに戻ると、人形焼きがひとつの皿に並べられ、お茶のカップも四つ用意されていた。みんなで囲んで食べ始める。

「少し痩せたんじゃない?」

 光世は人形焼きを頬張りながら、水樹を上から下まで眺めた。もう二十歳なのに、まるで中学生のようにほっそりとしている。

「そうかもしれない。たぶん食事が不規則だからだと思う。肌の調子もよくないし」

 そう言いながら、水樹はふたつめの人形焼きに手を伸ばした。ダイエットをしているわけでもないのに痩せていくのは良くない傾向だ。自分でもわかっている。光世の手料理で育った水樹には、外食が何日も続くと食べ続けることができない。食べたいものさえ思い浮かばなくなってしまう。

「部屋が散らかったままでもいいから、食事の問題だけは何とかしたい」

 水樹の言葉を受けて、彩美と光世は期待のこもった視線を黒恵へと向けた。

「わかった。エネルギーが残っていなくても作れそうな簡単メニューを考えてみる。買い物に行くのもエネルギーが要るから、ストックできる食材で、火も包丁も使わずに作れるといいよね」

「そんなことできるの?」

「できるよ」

 黒恵は立ち上がり、棚を開けて中を眺め始めた。光世に「メモして、メモ」と促され、水樹はスマホのメモアプリを起動する。棚からカットトマトの缶を取り出して、黒恵は言った。

「ボウルに水とカットトマト、もずく酢を入れてレンジで加熱するだけ。鶏がらスープの素で味を整えれば完成。体を冷ます働きのあるトマトと、余分な湿気を取り除くもずくで、蒸し暑い夏を乗り切るスープのできあがり」

「おいしそう」

 想像するだけで食欲が湧いてくる。それから……と、黒恵は冷蔵庫を開けて中を見渡した。

「コンビニやスーパーで袋入りの千切りキャベツが売ってるよね。それをお皿に出して少しレンジにかけてしんなりさせたら、上にサラダチキンをほぐして並べる。青じそドレッシングに梅肉を混ぜてかければ、さっぱり簡単サラダのできあがり。梅肉はチューブタイプが便利だよ」

「それなら、わたしにもできそう」

 水樹の気持ちが明るくなった。流し台が片付いていなくても、テーブルの上だけで完結しそうだ。生ゴミも出ない。

「食欲がないときにもぴったりのメニューだよ。活力を補う鶏肉と、胃腸の調子を整えるキャベツの組み合わせ。青じそドレッシングをかけることで、食欲を引き出して胃の不快感も和らげてくれる」

 「ちょっと見て」と呼ばれて、水樹は冷凍庫を覗き込んだ。中には冷凍食品がぎっしりと詰まっていた。

「枝豆、オクラ、ブロッコリー、カレー用野菜ミックス……冷凍食品ってこんなに種類があるんだ」

「そう。買い物に行かなくても野菜が摂れるから、本当に楽なんだよ。この冷凍枝豆を解凍して塩昆布と一緒にご飯に混ぜれば、体の水分代謝を整える混ぜご飯のできあがり。枝豆と昆布が余分な水分の排出を助けてくれるから、むくみの解消や夏のだるさにも効果的」

 メモを取りながら、水樹はうなずいた。ワクワクする気持ちが止まらない。

「あとは、冷凍の刻みオクラを解凍して白菜キムチと和えて豆腐に載せれば、ちょっと豪華な冷や奴の完成。潤いを補う豆腐は汗をかく季節や乾燥する時期にぴったり。消化を助けるオクラと、胃腸を元気にするキムチで、食欲増進と夏の胃腸ケアにもなる」

 こんな感じかな……と黒恵が言うと、彩美と光世がパチパチと拍手をした。つられて水樹も手を叩く。気持ちがすっきりと晴れ渡っていた。家のことがうまくできなくても、自分でエネルギーを配分した結果だと思えば受け入れられる。ときには少しだけ余力を残して、黒恵が教えてくれた簡単料理を作ってもいい。自分の暮らしは自分で選ぶ――そう思った瞬間、水樹の中に巣食っていた自己嫌悪はすっかり消えていた。代わりに、小さな自信のようなものが芽生えた気がした。

◎今日のまかない薬膳

・冷凍枝豆と塩昆布の混ぜご飯

・千切りキャベツとサラダチキンの梅しそソース

・もずく酢とトマトのスープ

・刻みオクラとキムチの冷や奴